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雨月民話

メールマガジン民話万象でご紹介いたしました民話の再編集や、時節に応じました民話の紹介と江戸時代の文学作品「雨月物語」を中心とした聖地巡礼案内を行っております。

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雨月民話風呂について

【注意!・・・最新記事はこの記事の次になります】 

 はじめまして。管理人のくげと申します。
 このblogは2002年に仙台を中心として配信しておりましたメールマガジン「民話万象」の再編集を目的に立ち上げました。
 さらに、江戸時代の文学作品であります「雨月物語」をはじめとする文学作品の舞台となっている場所を実際にご案内する記事の2本柱で行いたいと思います。

 2012年8月半ばより、週に1回のペースでございますが過去の記事をまとめて更新していきたいと思います。
 重い腰を上げての更新となりますが何卒よろしくお願いいたします。
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白峰(讃岐)

白峯


2000年 白峯参道
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2000年 白峯参道
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2010年 白峯参道
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2010年 西行法師の道
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白峯寺 山門
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伝承 掲示板
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崇徳院 陵墓
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西行法師像
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頓証寺 山門
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頓証寺 相模坊像
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空にむかひて相模相模と叫せ給ふ
(雨月物語 より)


(白峰寺)

 私が雨月物語を追いかけるきっかけとなった話が、巻頭を飾る「白峯」でございます。2000年から合間をぬっては1年に1度は必ず香川と京都に行き、崇徳院陵墓に参詣するということを12年近く行っております。

 雨月物語では「しらみね」と呼んでおりますが、実際のお寺の名前は「しろみね」と呼ばれております。
 中には西行法師や相模坊の像、そして崇徳院陵墓など白峯の世界を思い起こす場所がたくさんございます。

 初めて白峰を訪れたのは2000年の8月末。あの時は下調べを満足にせず、雨月物語のページなど皆無で情報が何もなかった私は坂出駅に降り立ってからバスに乗り、途中から徒歩で白峯を目指しました。
 五色台の山麓にある白峰寺までは夏の暑い最中、木陰で休みながらも荒れていた参道をかき分けて、白峰寺につくことが出来ました。
 あれから10年。今ではレンタカーを借りて白峯寺だけではなく崇徳院関連の史跡や図書館で新たな資料がないかを確認したりしております。
 初めて訪れた時の参道の荒れ具合を
木立わづかに間たる所に土く積みたるが上に石を三かさねに畳みなしたるが荊蕀薜蘿にうづもれてうらがなしきを`これなん御墓にやと心もかきくらまされてさらに夢現をもわきがたし
という「白峯」の最初の部分を思い浮かべました。
また、10年後同じ場所から見た参道は、まさに「白峯」の最後の部分
其後御廟は玉もて雕り丹青を彩りなして稜威を崇めたてまつるかの国にかよふ人は必ず幣をささげて斉ひまつるべき御神なりけらし
を思い浮かべました。

 能でいうならばワキである西行法師の像は頓証寺の境内左隣にございます。その表情はまるで崇徳院と対峙しているときのように険しく必死の思いでいまでも崇徳院に語りかけているのでしょうか。
 また、近年この白峰に住むといわれている天狗「相模坊」の石像も建立されました。
空にむかひて相模相模と叫ばせ給ふ
崇徳院の前にあらわれて平家一門の滅亡について話し合うあの場面です。

 ちなみに陵墓は昔も今も変わらず整備されており、雨月物語でいえば平家滅亡以降からずっと大事にされてきたのでしょう。

住所:香川県坂出市青梅町2635
交通:坂出駅前より琴参バス  王越・大屋富行き高屋(登山口)下車 徒歩2.5キロ(約1時間)
    レンタカーならばJR坂出駅より20分、JR高松駅より40分

香具波志神社(上田秋成墓)

上田秋成

香具波志神社
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上田秋成
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京都の西福寺の墓は全国的に知られていますが、これは文政4年の秋成十三回忌に、友人の森川竹窓らが建てたもので、淀川区には、それよりはるかに古い墓が現存します。
上田秋成の墓 説明より)

香具波志神社 上田秋成墓)
 上田秋成が疱瘡を患ったときに、香具波志神社(当時は加島稲荷と呼ばれていた)で祈願したところ、68歳まで生きることができると告げられ、それ以来香具波志神社の参詣を怠らなかったそうです。
 また、一時期香具波志神社の境内に住んでいたこともあり、居住跡の石碑が建てられています。

 墓は秋成の死後から3年たったころに、親交のあった香具波志神社の神主「藤氏」がたてたものである。
ちなみに、西福寺は秋成の死後13回忌の時にたてられて、大阪の秋成墓所に関する説明は、このことを強調して伝えている印象をうけました。

 なお、お墓は香具波志神社の北側にある「日本化学工業」の塀沿いにあります。


住所:大阪市淀川区加島4丁目
交通:JR東西線加島駅 徒歩10分


西福寺(上田秋成墓)

上田秋成
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人皆縦に行けば、余独り横に行くこと蟹の如し。故に無腸という。
上田秋成 談)



西福寺玄関
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上田秋成墓案内
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上田秋成
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上田秋成墓側面
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上田秋成墓拓
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西福寺 上田秋成墓)

 雨月物語を書いた上田秋成は死後、西福寺に葬られた。墓には「上田無腸翁之墓」と刻まれている。

無腸」とは蟹を表しており、秋成自らの性格を「人皆縦に行けば、余独り横に行くこと蟹の如し」とのべていることから刻まれたと思われる。墓の台座をよく見てみると蟹の形をしているのはそのためである。

 上田秋成の墓は一般の墓と区別されており、拝観するにはご住職さんがご在宅時にお願いすることになる。
 お寺の中には上田秋成の木造や掛け軸が飾られており、上田秋成に縁のある本や大学の論文などが数多く納められていました。



住所:京都京都市左京区南禅寺草川町
交通:地下鉄東西線「蹴上」下車徒歩7分 市バス5系統「法勝寺町」下車徒歩4分

紫式部墓所(序文)

序文

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羅貫中は「水滸伝」を書いた後、子孫三代に渡って口の聞けない子が続き、紫式部は「源氏物語」を著して一たび地獄に落ちたというが、これは嘘の話を真実とでっち上げて書いた業が、己の身に迫った為であろう。
『雨月妖魅堂』より引用


紫式部墓所入口
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紫式部墓所 概観
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紫式部墓所 案内1
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紫式部墓所 案内2
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紫式部墓所
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小野篁墓所
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(紫式部、小野篁墓所)


 雨月物語についてのブログであるのに、紫式部の紹介から始まることに違和感がある方がいらっしゃるかもしれません。実は、このページ上部にもか枯れてあるように雨月物語の序文で紫式部は「源氏物語」を書いたので地獄に落ちたという記述があります。

 実際に鎌倉時代に成立した「今物語」や「宝物集」には紫式部が源氏物語という虚言を書いたために地獄に落ちたという話が残されており、歴史書の「今鏡」では大焦熱地獄に落ちたとかかれてあります。秋成自身の「秋月記」にも雨月物語の序文のようなことがかかれてあります。

 これは、仏教においての五戒で「不妄語戒(嘘をついてはならない)」という思想から、源氏物語という人々を惑わせた嘘をかいた紫式部が地獄に落ちたと考えられておりました。
 他にも「湖月抄」の付録「源氏表白」には安居院法印澄憲が紫式部を地獄から救うものであり、これを下敷きに能の「源氏供養」が作られました。能は怨霊鎮魂の芸能でもあり、紫式部が地獄に落ちたと多くの人が考えていたのでしょう。

 紫式部の隣にある小野篁は小野小町の祖父と伝えられている人物です。篁の有名な伝説で昼は朝廷で働き、夜は冥府にて閻魔大王の手伝いをしていたとされています。その篁が閻魔大王と紫式部の間をとりなし、地獄から救ってあげたという伝説が残っております。
 その伝説がいつごろから語られたのかは不明ですが、14世紀に書かれた「河海抄」の中に「式部墓所在雲林院白毫院南小野篁墓の西なり 宇治宝蔵日記にも紫野に雲林院有よし見えたり」と書かれております。

 真偽のほどは定かではありませんが14世紀(鎌倉末期から室町初期)には少なくとも二人のお墓が並んでおり紫式部が地獄から救われたものと思われます。

住所:京都市北区紫野西御所田町北大路堀川下る西側。島津製作所
交通:北大路堀川バス停近く

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くげ

Author:くげ
過去に配信しておりましたメールマガジン「民話万象」の過去ログと民話の背景を配信しております。

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