宝刀瀬登丸
時は中世、平重盛の次男・資盛が壇ノ浦の戦いに敗れ落人となり身を潜めながら諸国を巡り歩き歩き通して資盛から四代目の基盛の時代に現在は温泉地として名高い秋保に定住したのであった。そして六代目定盛の時には姓を秋保と改め今日にいたるわけでございます。本日はこの秋保氏にまつわる昔話で皆様のご機嫌をおうかがいしたいとおもいます。 むかしなぁ、六代目定盛の父親で弾生直盛ちゅうお侍さんがいたんだと。直盛は秋保の洞窟堂山さある塩滝不動尊さおまいりに出かけたんだと。洞窟堂山っちゅうのは慈覚大師様が山形の山寺さ立石寺を開く前にここに寺を作ろうとしてなぁ、塩滝不動尊をまつったんだども秋保氏の前の領主様が慈覚大師様に嫌がらせしたもんで山形のほうさいったんだと。 直盛が塩滝不動尊に詣でた帰り道、覗渕の足場の悪い道を歩いているとなぁ、脇に差していた先祖伝来の脇差が鞘からぬけてしまって渕さおとしてしまったんだと。 どうにかして拾い上げようとしたんだども、渕があまりにも深いもんで直盛も家来も誰も入ることができなくてなぁ、しかたなく屋敷さ帰えろうとしたんだと。 そしたらなぁ、渕のそこから一匹の蛇が這い上がってきてなぁ、家来の前さやって来っと蛇の姿から刀になってなぁ、それはまぎれもなく直盛が落とした先祖伝来の刀だったんだと。 直盛は脇差さ「瀬登丸」と名づけてこのことを語り伝えていったんだと。 さてさて、今語り伝えた昔話には後日談がございまして時は寛永二年(1626年)仙台を治める伊達政宗公にこの先祖伝来の宝刀を所望され、この刀を謙譲したところ御一家の十番目であった秋保家の席次を二番目にあげたんだと。それからは伊達家の藩庫に秘蔵されたというお話でございました。 まんが日本昔ばなしの本をお探しの方はこちら ![]() |
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